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写真ではそのように見えにくいが、流石に峠だなと感じる角度の登りが続く…続く…どこまでも続く。平坦な場所がない。
常に地面が濡れているため気軽に休憩を取ることができない。湿度も高く、汗が乾かない。しかも苔の生した石はすべりやすく歩きづらいのだ。
この路の順路はどのパンフレットもこちら鷲毛バス停からとなる。ナルホドここまで滑りやすいと、この場所が下りとなる逆方向に歩くのは危険かもしれない。
低樹木やシダの多さからも、この場所が普段から多湿であることが伺える。 |
このあたりの石畳は美しいと案内されているようで、確かに石畳が崩れることなく、整然としている。それはこの先の写真にある石畳と比べて見るとすぐにわかる。見事に整えられた石畳だ。
■夜泣き地蔵
この場所が夜泣き地蔵。右側の写真がそうだが、石積みの祠で大正時代までは実際に石地蔵があったと云われているが、以降は自然石が祀られ、明治頃には地区の人々が子供の夜泣き封じを祈って「夜泣き地蔵」と呼ぶようになり、哺乳瓶が供えられるようになったそうだ。
まだ地面は濡れているものの、このあたりから湿度が低くなってきたと感じられるようになってきた。 |
■林道交差点付近
この付近まで来ると、石畳は少し荒れているものの乾き、下草が少なくなり美しい杉林といった雰囲気が出てくる。
気温は高いが、乾かない汗で悩んでいただけに差し込んでくる太陽も嬉しい。
林道交差点には間伐材で作られたような長イスがある。ここで一休みをする。 |
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■馬越峠茶屋跡付近
明治の中ごろまで、この場所に馬越茶屋があって、多くの巡礼者や旅人をもてなしていた。茶屋の主・世古平兵衛が享保8(1723)年におまつりした岩舟地蔵の銘があり、開業はそれ以前と言われている。
この場所まで来ると吹き抜ける風が乾いていて気持ちいい。木々の隙間から尾鷲北側の町が見える。
道はここで4つに分かれる。 |
左に折れて登れば30分で天狗倉山(てんぐらさん)山頂まで登るコース。木々に邪魔されることなく尾鷲の絶景を見ることができ、天狗岩に付けられた梯子を登れば反対側の展望もできる。獣道と思われるような道なので上記地図には描いていないが、右に折れれば尾根づたいに隣の山、便石山(びんしやま)山頂まで登るコース。ゆるやかに左に曲がりながら下れば尾鷲の市内へコースとなる。
駅までの残り時間が迫っているため天狗倉山へのコースを断念。ここから市内に下る事にした。
馬越峠茶屋跡を過ぎると下り坂が続く。
後ろを振り向けば、結構急なものだと感じられる位の坂だ。 |
このあたりまで来ると軽装で軽快に登ってくる人が目につくようになる。この先住宅地になるので、きっと地元の方が多いのだろう。挨拶をしながら通り過ぎる。
■桜地蔵付近
レンガ作りの祠にまつられている地蔵尊は、旅人の安全を願って奉納されたと伝えられ、その前は「石積みのほこら」だったそうだ。このすぐ前には水の流れがあって、旅人の足や草履が濡れないよう石畳が流されないように水を谷に流す排水溝「洗い越し」が右写真のもっと手前にあり尾鷲市有形文化財となっている。肝心の部分は写真に撮りにくく何を写しているのかわからない絵になってしまうため撮っていません。あしからず。実際に行って見てください。
途中の夜泣き地蔵もそうだったが、水が湧き小さな流れを渡る場所に地蔵が奉られているところを見ると、いや、これは想像だけれども、どちらの地蔵も本来の理由は水で路が流されないよう願かけのために置いたのかもしれない。
桜地蔵の前で一人の地元の方とお話をする。挨拶の大切さを感じる瞬間だ。
改めてご挨拶をさせていただいた後、「やはり私の地元に来ていただいたならここの良さを知ってもらいたいからね」の言葉を頂き、話が弾み、そこからいろいろとお聞きしました。
路の脇を流れるこの水は少ない方で、多いときにはこの数倍の水の量になるそうです。実際に携帯の写真も見せて貰いました。酷い大雨になるとあふれ、洗い越しにかかる大石が流されてしまう事もあるそうで、「そのような時も直したんですよ。」と。「この場所を守り続けて行きたい」といった地元の人達の気持ちと協力もあってこの古道が守り続けられているんですね。
最後におもしろいキノコ(右上写真)の生えている場所とこの先の見ておくといいルートを教えて頂いて別れました。手を振ってお礼を言ってお別れ。「いえいえ」とやんわりと言われたものの、やはりこの様な方がいらっしゃるということで、ご本人の顔が分からない程度の大きさの写真を一枚。ありがとうございました。
■雑感…
尾鷲は「世界遺産反対」でニュースにもなった場所。ただし細かく言うとここ馬越峠ではなく、別の場所「八鬼山。」古道脇の木の幹にペンキで大きく「世界遺産反対」と書かれた土地所有者のメッセージはニュースで誰も見た事があるだろう。あれは流石にやり過ぎの嫌いもあるかもしれないが、本人でさえメリットがあるとは言えないあの行為から「あそこまでやらなければ誰も聞く耳もなかったのかもしれない」とも推測できる。
このような土地は100%自然だけで成り立ってきたものではない。遥か昔から人間の手が入り、間伐を行い、また弱い木を伐採して林の中に太陽の光を当て、生きている木を生長させている。土地の所有者はその林を守り、その中から選んだ木を伐採し生活の糧にし、広く伐採した後には新しく木を植え、切った木を搬出するため林を傷つけないよう道を整備する。自然と調和し整備されつづけた土地なのだ。しかもこのような林は100%市・県・国のものではなく、個人でここに土地を持ち、林業を従事している人がいて成立している自然なのだ。
整備されなければ「人が入れる美しい林」が守れないのは事実。太陽の光が入らなくなった「荒れた森」は木の生長が阻害され根が弱くなる。多雨の季節、傾斜地では土を支える事ができず、土砂崩れが起き、山は見るも無残な姿となる。これは全国何処でも当たり前の事。そして同じ悩みを抱えていることだ。
残念に感じているのは世界遺産を目指した条例が出されると、「現状維持」が基本。山や林を守るための伐採さえ申請が必要で土地の所有者が勝手に切ることはできなくなる。100%自然だけで造られてきた土地ならそれでいいかもしれないが、人と共に生長してきた土地にはその仕組みが合わず、「自然を守る」名目の規制もあくまでも短期的な維持しか機能していないように感じる。むしろ林の生長を考慮すると病気の木の伐採や間伐が簡単に出来ない策は長期的逆効果になるのではないだろうか。鷲毛周辺の入口の深い森を感じさせる鬱葱とした様や、山頂付近の光の毀れる様、尾鷲駅側出口の荒れた石畳と根の土が流されている様、ころころ林の表情を変えるそんな馬越峠を見て、その自然がとても不安定で将来に渡り人間の介在は常に必要と感じたほどだ。
地元の人達がいないと保全が成立しない現在の仕組みが更なる危うさを感じさせる。
世界遺産推進は政治的上流で行われているようで観光客用に看板がいたるところに立っているのを見かけるが、その自然を守っているのはむしろ地元の人達のボランティア精神。世界遺産ブームの中、このような人達へのトップからのサポートはないのか、「世界遺産反対」のニュースを聞くと逆に住民を困らせているのではないかと勘ぐってしまう。ま、50年後、100年後は考えず今だけを見るなら別に構わないかもしれないが、住民がそっぽを向いたとき一気に荒れてしまわないか、旅行者の目からも一抹の不安を感じてしまう。
此処だけでなく、日本中どの場所に於いても本来の世界遺産への推進は観光のための目で見える整備ではなく、将来を考え、地域住民全体から発起とする「調和」の元ボトムアップで広げていった先にあるものと感じるのだが、この考えは違うのだろうか。
真に「自然を守る」というのはどういう事をすればよいのだろう…
そんな事を真に感じた道のりでした。
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■馬越の津波供養塔
馬越公園から先は石畳が終わり、舗装された普通の道になる。周囲は墓地が並びその先にこの津波供養塔がある。寛永4(1707)年10月4日に発生した寛永大地震津波で亡くなった1000人あまりの犠牲者の供養のため正徳3(1713)年に建てられたとされる石塔。その後寛永7(1710)年の幕府巡見使への報告資料には530余人となっている。
この先至るところで津波の避難経路のマークを見ることができる。
■尾鷲神社
伝統的なヤーヤ祭りの会場としても名高い尾鷲神社。境内にある大楠の樹は推定樹齢1000年以上といわれており、昭和12(1937)年11月12日に三重県の天然記念物に指定されている。見事な樹だ。
尾鷲神社の本殿は鳥居の写っている写真のそばにあったが、大津波の後現在ある奥の位置に移されている。
この先、川を渡り、
商店街を通り、尾鷲の駅まで歩く。 |
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